何も知らなかった頃の話。 月も隠れそうな夜半過ぎ。 重い足を引きずりながら、ラピードと共に家のドアをくぐった。 「おかえりなさい」 申し訳程度に明かりが照らされた室内で、はいつも通りの笑顔で出迎えてくれた。 いつも服の下に着こんでいるノースリーブの薄着しか着ていない。パジャマ代わりの格好だ。 肩越しに見えるのは、テーブルに並べられた空の食器。 「ごめんなさい、先に食べちゃいました」 「いや……」 何も言っていかなかった。作ってくれていただけでも。 「すぐに用意しますね。ラピードもちょっと待っててね」 いそいそと鍋に火をかける。俺は促されるまま椅子に座り、ふせられた茶碗を眺める。 言付けが無い限り、いつもは起きて待っていてくれる。 …それが嬉しいやら、申し訳ないやら。 「…あ……」 味噌汁をよそうの視線が、俺の腰辺りに注がれている。 「ユーリさん、裾が……」 「ん?…げ。いつの間に……」 どこかで引っ掛けたのか、上着の裾が盛大に破れている。 よく今まで気がつかなかったものだ。 「貸してください。そのくらいなら直せますから」 そうこうしている間に目の前に並べられていく食事。 どれもほかほかで、うまそうで。急に腹が空腹を訴えてくる。 「わりぃ。頼む」 脱いだ上着を帯ごと手渡し、さっそく箸を握る。 は少ない食材を上手く膨らませる腕の持ち主だ。 彼女が台所に立つようになってから、たらふく食えるようになった。しかも俺の好みを分かっているから、たまらない。 いつの間にかラピードの餌も用意し終え、裁縫箱をベッドに置く。 短い丈から覗く白い足も美味そうだと、邪な気持ちが頭を過ぎる。 静まり返った空間。衣擦れ。微かな息遣い。 誰も何も喋らない。なのに、心地よい。 魔導器でほんのり照らされた情景に、目を細めた。 (…なんか……いいな、これ…) はいつだって笑顔で待っている。 冷めた部屋は彼女がいるだけで温もりが灯る。 独り気ままに過ごしてきた頃は知れなかった、暖かさ。 「あれ、もう食べたの?」 お腹減ってたんだね。足元に寄ってきたラピードに笑いかける。 ……ちょっと相棒が羨ましく見えたとか、そんな。 ほとんど食べ尽くしていたご飯をかきこみ、席を立つ。 「あ、ごめんなさい、まだもうちょっと…」 隣に腰を下ろし、言い終わらないうちに小さな背に頭を預けた。 「……?」 糸を通す音が止まった。 だがしばらくして、何も言わずはまた針を動かす。 彼女の手元を包む黒檀の服。華奢な指が触れていると思うと、くすぐったい。 ちょっと反応して欲しくて、腹に腕を回して少しだけ引き寄せてみた。 いつの間に、こんなに、の存在が大きくなっていたのか。 「……遅くなって、悪い」 彼女が傍にいるだけで癒される。暖かい。疲れが、嘘みたいに吹っ飛んでいく。 「ここはユーリさんの家なんだから、気にしないでください」 何でもないように明るい口調で言ってのける。 いっそ責めてくれたらいいのに、はそういった不平不満を全然言わない。 料理は美味いし、裁縫も上手だし、おまけに働き者。 彼女は世話になっているからと言うけれど。 俺がを庇護していた時期はとうに過ぎた。今や立場は逆転し、世話されているのは俺のほうだ。 「ホント、お前は……」 お人よしだ。無条件に受け入れられる度、俺は彼女の温もりから離れがたくなる。 心をほどいて、くつろげる場所。 ここに帰るために一日がある。 最近そんな腑抜けたことまで考えるようになった。 「…」 「はい」 「」 「はーい」 ただ呼ぶだけの俺に、律儀に応える。ああもう、なんだこの可愛い生き物。 大の男が小柄な女の子にひたすら甘えているとか、滑稽なのだろうけど。 もうカッコ悪くてもいい。頭がどうかしててもいい。誰に何を言われてもいい。手放してなるものか。 「…はー……癒される……」 フゥーン。ラピードが聞いたことも無いため息を吐いて、俺を見上げてくる。 彼には、目も当てられない光景が広がっているのだろう。 「じゃあ…必要なとき呼んでください。遠くにいたって、飛んでいきますから」 「そりゃ頼もしいな」 こんなふざけた約束でも真面目に覚えていて、ちゃんと守ろうとするのだろう。 離れていても駆けつける。彼女のことだ、本当にそうするに違いない。 「」 「はい」 「…まだ?」 「もうちょっとです」 ああでも、こんなやりとりがずっと続いてもいい。 (…指輪でも探しておくか……) 渡すことができるのは、ずっと先になってしまうかもしれないけど。 を本当の意味で迎えるための、自分へのケジメだ。 受け取ってもらうには、今のままでは色々と不甲斐無いから。 ひっつけた額からの音が聞こえる。 子守唄に誘われるように、瞼をゆっくりと閉じた。 過ぎてゆく日常が、こんなにも、大切に思えるなんて。 願わくばこの先も、彩りの中心にがいますように。 響く心音に、照れくさくて言えなかった台詞を、そっと投げた。 「ただいま」 |