さくさく。踏み出すたび芝生が軽やかな音をたてる。 「エステリーゼさん」 木の幹に背中を預け、船を漕ぐお姫様。華奢な膝の上は読みかけの本が乗っていて、絵画のような爽やかな光景だ。 「エステリーゼさん」 二回目の呼びかけに彼女はようやく顔を上げた。 草むらに落ちそうな本を取り上げて、できるだけ柔らかく笑って見せる。 「そろそろ出発です」 「んん……」 夢うつつを彷徨いながらも、新緑の瞳が私を捉える。 「呼びに来てくれたんですね。ありがとうございます」 ふんわり。花が綻ぶように。裏表のない無邪気な微笑みを前に、なんだかむず痒くなる。 可愛い。本当にこの人は、可憐に咲く野の花のようだ。 「…いえ。立てますか?」 「はい、大丈夫です。よっこいしょっと…」 彼の影響かあまり似合わない言葉を使うこともあるけど、それすらも好ましく感じてしまうくらい私は彼女のことが好きだ。 たくさんのことを知っていても驕ることなく、凛とした瞳はいつも前を向いている。 いつだって平等で。暖かくて。優しくて。それでいて立ち振る舞いから声色まで可愛いなんて、 まるで童話に出てくるヒロインのよう。エステリーゼさんは私にとって、眩しい憧れの存在だった。 「今日は童話ですか?」 彼女が読むジャンルは多岐に渡るが、今は子供向けのおとぎ話に夢中らしい。 可愛い挿絵の中には、これまた可愛らしいお姫様。桃色のドレスと金の王冠をかぶった少女が、 小鳥たちに囲まれ楽しそうに歌っている。 「主人公のお姫様がに似てるんです」 「え?」 「強くて、真っ直ぐで」 様々な困難を乗り越えて結ばれる王子様とお姫様。どこかで聞いたような、よくある話。 「お姫様はいつも笑顔で頑張っているんです。どんなに大変でも、一途に王子様を支えていて……」 …エステリーゼのさんの目に私がどう映っているのか、少しわかった気がする。 でも私は童話のお姫様のように純粋でも無欲でも無い。 それに正真正銘のお姫様にお姫様のようだと言われても、首を縦に振れる人は多くないんじゃないか。 「お貸しします。読んでみてください」 じっと挿絵を見ていたせいか、興味があると思われたらしい。 好奇心はあるけど、でも、私が持っていても、宝の持ち腐れだ。 「…あの……」 返そうとして飛び込んできたのは、大好きなものを誰かに知ってもらいたいという、純粋で楽しそうな顔。 申し訳ない。申し訳ないけど。私は応えられない。 「………ごめんなさい。せっかくだけど、私は字が読めないから……」 「えっ……」 恥ずかくてユーリにも言っていない、私の欠点。 そっと本を閉じて差し出す。私にはもったいない、過ぎたる物。彼女の手にこそ相応しい。 けれど、エステリーゼさんは受け取らなかった。首を振って、笑う。 「じゃあ私が教えます!、一緒に頑張りましょう!」 明るい声と共に本を押し返され、勢いのまま受け取ってしまった。 教える?……なにを? 「え…あ、あの……そんな…申し訳ないし……」 突然のことにちゃんとした言葉が出てこない。 先の無い私が勉強なんて、そんな悠長な身分なのか。唯一頭に浮かんだ台詞は喉の奥に押し込む。 「まずはみんなの名前から覚えましょう!ええと…カロル、リタ、ラピード……」 「え、エステリーゼさん」 「あ、の名前はこうです。エステルはこう書きます」 ガリガリ。落ちていた木の枝で土に刻んでいく。…私には、記号が羅列されているようにしか見えない。 「ユーリは、こうです」 彼の名前。そう思った瞬間、読めないはずの記号が特別なものに変わった。 ユーリ。…ユーリ。こう書くんだ。 困惑しかなかった頭の中に、甘い熱が滲む。目を離せないでいる私に彼女は声を弾ませた。 「慣れ親しんだものなら、覚えやすいと思うんです」 我に返り慌てて顔を上げると、エステリーゼさんは、さっきまでとは違う笑顔を浮かべていた。 …このお姫様は、時々食えないところを見せる。 「…エステリーゼさん」 「エステルって呼んでください。ならできます!頑張りましょう!」 「……はい………」 断る理由を絶たれてしまった私は、開き直って地面に書かれた文字たちを眺める。 読めなくて困ったことは、あまりない。案外どうとでもなったから、不便と感じたことはなかった。 けれど、もし読み書きができたら、もっと何かできるだろうか。ユーリのためになるだろうか。 「あと敬語もナシです!もっと気楽に喋ってください!」 それを貴女が言うのか……つっこみたいけど、ちょっと頭が上がらなくなっている私は素直に頷いた。 「わかった。…エステル先生、よろしくお願します」 先生。その言葉にエステルはぱあっと笑った。 「いつか本の感想を聞かせてください。読書仲間になれたら嬉しいです…!」 …確かに、今の面子で本の感想を語り合うというのは、あまり期待できない。 「うん、いつか…」 仮に読めたとして。お姫様に似ていると言われた私は、どんな感情を抱くだろう。 「おーい」 背中に響いた低い声。思わず肩が跳ねる。 ああそうだ、エステル呼びにきたんだった。なかなか戻らないからユーリも心配して来てくれたんだ。 振り返る前に、足元の文字が目に入った。…これを見た彼は何を思うだろう。 文字が読めないなんて知られてしまったら。 顔を強張らせる私に、優しい声が降りかかる。 「大丈夫ですよ」 ユーリにも聞こえるように。そして、白い手袋が地面を撫でる。 あ、と思う間に、名前たちが、エステルの手に吸い込まれるように消えた。 「ミイラ取りが何とやら、だな。…ん?どうした?」 石のように動かない私を訝しげに覗き込んでくるユーリ。整った顔が、近い。恥ずかしくて顔を逸らしてしまった。 「ううん。…ただ、エステルに足向けて寝れないなぁって……」 力無い笑顔を浮かべると、エステルとユーリは揃って首を傾げた。…可愛いなぁもう。 「が本持ってるなんて珍しいな」 「私のオススメです。ね、」 「うん…」 どうやら本腰を入れて勉強しないといけないようだ。そういえば、日々のことに精一杯で勉強なんて久しぶりだ。 かつて自分はどうやっていたのか思い返しながら、厚い本を胸に抱く。 借りるだけ。きちんと返さないと。 「…おっと、長話してると俺もミイラになりそうだ」 「これ以上みんなを待たせたら怒られちゃいますね」 「そうだね。ごめんなさい、行こうか」 ユーリに続き数歩歩いたところで、くんっと袖が引っ張られる。 辿れば、華奢な指があった。 「」 桜色の唇が、そっと耳打ちする。 「みんなの名前を書けるようになることが、最初の宿題です」 今日いちばんの笑顔を咲かせて。 唖然としている私を、軽い足取りで追い越す。 「……………………」 私は。エステリーゼさん……エステルの、可愛くて優しいところが、大好きで。 大好きな人が、不意打ちで、内緒話。嬉しさと恥ずかしさが混ざって、マフラーに顔を埋める。 そんな固まって動けない私に、さらに追い打ちがかかる。 「?」 「おーい??」 …だから2人そろって首を傾げないでください。死んでしまいます。 「………行きます」 字を読めるようになれば、きっとエステルは喜んでくれる。 名前が書けるようになれば、もっとユーリの為に何かできる。 いつかお姫様のように。なんて、口が裂けても言えないけれど。 せめて似ていると言ってくれた童話の主人公に、少しでも近づけるように。 心を掴むお姫様。心を揺さぶる王子様。 彼らと並んでも、恥ずかしくない自分でありたい。 そのための勉強はきっと、贅沢なことじゃない。 |