強い雨音がしている。濡れて重くなった髪が冷たい。 「どうしよう…」 すぐに戻るからと、誰にも告げずに出てきてしまった。 今頃みんな心配しているかもしれない。けれど叩きつけるような雨の中走る勇気も無く、 どうしようもない状況が恨めしくて、ため息が漏れる。 診察と薬の受け取り。宿屋を出た時間を合わせてもまだ1時間にも満たないのに、いつの間にか黒い雲が空を覆い、 傘を差して歩くのも躊躇われるような雨が振り出した。 咄嗟に店の軒先に入ったはいいものの、一向に止む気配が無い。寧ろどんどん強くなってきている。 濡れないように逃げるが、大きい雨粒のせいで水滴がどんどんブーツを濡らしていく。 隣で同じように雨宿りしていた女性に、傘を持った男性が駆け寄る。 恋人、だろうか。2人は寄り添いながら、雨の中消えていった。 …誰か、迎えに来てくれないだろうか。ぼんやりとユーリの顔を思い浮かべたが、首を振る。 出かける直前に見たのは、宿屋のエントランス近くのテーブルで、桃色のお姫様と楽しそうにお喋りしている姿だった。 紅茶を片手に笑い合う2人はとてもお似合いだった。ここに来ては、いけない。それでいい。 ユーリはいつも気にかけてくれるが、それは保護者だからだ。 きっと彼の中で、私はボロボロの子どものままなのだろう。 ”子ども”がいつまでも保護者を縛っては駄目だ。自分のようなコブ付きでは結婚も遠のいてしまう。 近いうちに消えてしまう私は、彼の家族にはなれない。その資格も無い。 けれど、あの優しいお姫様ならきっと、ユーリを幸せにしてくれる。 この寂しい気持ちは、私だけの秘密。 薬の入った紙袋を胸に抱き、空を仰ぎ見る。 雲の切れ間が分からない。まだ、降るのだろうか。 「 顔を上げると、黒い何かがこちらに向かってきている。 「ったく…一言言ってけっての……」 彼はあっという間にの前まで来て、困ったように笑う。 紅茶のカップを持っていたはずの左手には白い傘が握られており、思わず、口をあんぐりと開けた。 「………どうして……………」 「お前が宿屋を出て行くのをたまたま見てたんだよ。その後すぐ降ってきやがったからな……。 巻き込まれてんじゃねえかって出てきてみれば、案の定だ。」 気づかれないようにしたつもりだったが、甘かったか。紙袋を隠すように抱き、は笑顔を貼り付けた。 「ありがとう。どうしようかなって困ってたんだ。ユーリが来てくれて嬉しいよ。」 だが反対にユーリは笑顔を消した。眉を寄せ、口を引き結んでいる。 ユーリ?そう問いかけると、今度は目を逸らした。 もしかして体調が悪いのだろうか。冷たい雨だから身体が冷えてしまったのかもしれない。 そう思い空いている右手に手を伸ばすと、握る前に手首を掴まれ引き寄せられ、むき出しの胸に額がぶつかった。 「い、痛い…」 抗議の声を上げると、ユーリはわざとらしく肩をすくめた。 「あーいい湯たんぽだわー」 「…やっぱり寒い?ごめんなさい、こんな所まで来させてしまって…」 「帰ったら一緒に風呂入るか。背中流してくれよ、さん?」 「む、無理です…おじさまに頼んでください……」 「オイ。なんでおっさん。冗談じゃねえ。」 最近、おっさんにも犬みたいについてってるだろ。 前から思ってたけど、はおっさんのこと過大評価しすぎだぜ。 あんなおっさん好きにさせときゃいいんだよ。おっさんなんだから。 拗ねた口調で捲くし立てられるが、よく意味が分からない。 レイヴンは優しくて面白い。色々教えてくれるので、ついつい傍に行ってしまう。他意は、無いのだけれど。 「あんま余所見すんな。」 ぎゅうっと、痛いほどユーリの身体に閉じ込められる。 こういうことは、本当は、止めて欲しい。 ユーリは心配してくれているだけだ。それは仲間としての情であり、それ以上でも、それ以下でもない。 なのに自分は愚かな勘違いに捕らわれる。特別だと、囁いて欲しくなってしまう。 この恋心は墓場まで持っていくべきものだから。 開いたままの傘が、いつの間にか足元に転がっていた。 微かに聞こえる雨足は未だ強い。 「なあ、。隠し事してないよな?」 違う。疑うのはよくない。約束した。これは、2人だけの秘密だと。 思考がぐるぐる回る。落ち着け、落ち着け、いつも通り笑顔で応えればいい、難しいことじゃない。 「何も無いよ?どうしたの?」 「………………………。」 ユーリの顔は見えない。長い髪が、の白い頬を掠める。 何も言わないけれど、どんな表情をしているのか何となく分かってしまった。 潮時、なのかもしれない。 許されるだけユーリの傍に居たかった。でももう、時間切れだ。 身体はまだ猶予を持っているが、これ以上我侭を言える状況ではなくなってきている。 思えばエアルクレーネ等、さんざん地雷に近しいところを通ってきたのに、よく耐えれたものだ。 不謹慎だが旅が楽しかったから何も気にならなかった。気持ちが、身体を支えていたのだろう。 けれど、の心境も随分変わってしまった。 秘めるべき想いを抑え切れず、仲間にすら嫉妬してしまう。傍にいるだけで幸せだった頃が嘘のようだ。 もっと、もっと、もっと。彼の何もかもを自分のものにしてしまいたい。 一番考えてはいけないことを、最近ずっと燻らせている。 「あ、でもね、話したいことはあるの。でもまだ考えがまとまらなくて… 話せるようになったら話します。聞いてくれたら、嬉しいな。」 終わりを迎えるにあたって、少しでも荷物は少ないほうがいい。 心配性のユーリは元々を下町に帰したがっていた。仲間には適当な理由をつけて帝都に戻ると言い、 そのまま知らない街に行こう。皆のように特別な事情があったわけじゃない。途中で旅を止めても、おかしくはないはずだ。 死ぬときは独りと、前から決めていた。 「ユーリ、帰ろう?みんな待ってるよ。」 今なら雨が視界を遮ってくれる。この体温に身を委ねて甘えても、誰も見てはいない そんな勘違いを突き放すように、ユーリの身体を押し返す。 「」 「ちょっと早いけど、帰ったらお風呂頂こっか。」 放置されていた傘を拾い、かつてユーリが好きだといってくれた笑顔を作った。大丈夫。まだ、私は笑える。 ユーリの影は晴れなかったが、の手から傘を奪い、細い肩を抱き寄せ、雨の中を歩き出した。 傘から聞こえる音は未だ派手で、通り雨じゃないのかな、なんて呑気なことを思った。 宿屋に戻るまで、このぬくもりは自分だけのもの。 もう多くは望まない。 これを最期の我侭にするから。 2人だけの世界が少しでも長く続くことを、貼り付けた笑顔の奥で祈った。 私が彼らの前から消える、数日前の出来事。 (この時彼女を問い詰めなかったことを、俺は強く後悔することになる) |