悩みの種が珍しく公務をこなしているというのに、ロイスの機嫌はあまり良いものではなかった。
仕事をする手つきはいつも通り要領が良いが、ひとつ終わらせてはため息、もうひとつ終わらせてはため息と、
まるで合いの手のようなため息の連続で、コンヴィク曰く「湿っぽくてうっとおしい」状態なのである。

「…よし。今日のはこれで終わりだな。」
「締め切りの分はな。ほい、来週の視察の資料。数が多いから、分担してやっとかないと、後で泣くぞ。」
「嫌だ。やってくれよ。」
「嫌だじゃないよ馬鹿野郎。いくら俺が何でもできるナイスガイだからって、限度があるのよ。」
「ロイス…可哀想に…落ち込むあまり、そんなに自分を過信して…」
「同情するなら仕事しろ。頼むから。これ以上俺を追い詰めんでくれ。」

やけくそ気味に紙の束を机に叩きつけると、コンヴィクは渋々ながら、一度投げ出したペンを再び拾った。
やればできるくせに、何故やらないのか。それは「できるから、今はやらない」という、彼の理解しがたい怠け癖のせいである。
やれよ、今。そうしたら色々平和なのに。

何もかも綺麗に解決できていないこの状況で、この上駄々をこねられたら、怒ることを通り越してもう泣きたい。
そんな気持ちを知ってか知らずか、今日の上司は比較的素直である。ありがたいことだ。
この調子で心労が消えてくれればいいのだが、そう上手くはいかないだろう。

(あの女は来るわ、不審者は見つからないわ…くっそ、本気で転職してやろうか)

思い出すだけで気分が重くなる。とりあえず苦手なあの女のことは(どうしようもないため)置いておくにしても、
問題はイクスが会ったという黄緑色の髪の少女のことだ。

結論から言えば、ロイスは奇妙な侵入者を見つけることはできなかった。
イクスはロイスと折り合いが悪いが、それでも嘘はつかない、素直な性格だ。彼女の唯一の長所だろう。
言っていた隣室で怪しい影を見つけられなかったとしても、ロイスはそのことに関して疑ってはいない。
だからこそ、じゃあどこへ消えたのかと、気持ち悪さも相まって落ち着かないわけで。

「あー…くそ…」
「なんだ、まだ気にしているのか?」

寧ろ、何でお前は気にしてないんだ。一応この王宮の主だろうに。
ロイスはますますどんよりした表情で、ゴミ箱を軽く蹴った。

「あの野郎。無断で入れた上、なに逃がしてんだよ。本気で職務怠慢…っていうか職務放棄じゃねえか。」
 『記憶にございません』『そのようはつもりはありません』…どっかの政治家か、くそったれ。」
「…そうかな。彼もイクスと一緒で、嘘をつくことを知らないんだ。怠慢と放棄は確かにそうだけど…ちょっと処分しにくいな。」

彼とは対象的に、コンヴィクは楽しそうな笑顔を浮かべながら、サラサラとペンを走らせる。

「『記憶にございません』『そのようはつもりはありません』。これ、どっちも遠まわしに事実を肯定してるだろ?
 生真面目な彼が下手くそな言い訳つけて、必死に誤魔化そうとしてるんだから、騙されてみるのも一興じゃない?」

にっこり。
ますます笑みを浮かべて、口元を引きつらせる部下を見やった。

「国王とその右腕を謀ろうっていうんだから、それなりの理由を期待しているよ。」

その瞬間、コンヴィクの頭上で、カタン、と天井が鳴った。
普通ならあり得ない場所からの奇妙な物音に、国王は微動だにせず、ただ笑顔を浮かべ続けている。
そのやり取りに、ロイスはさらに頬をげっそりとさせて、壁にもたれかかった。

「『わかりました』、…だとさ…。」
「そうか。わかっているなら、いいさ。」
「…俺ホント、お前を敵に回したくないわ。」

どうしてコンヴィクが、トルタスクという大国の王に選ばれたのか。
その基準はロイスの知るところではないが、彼のこういう一面を見るたび、どこか納得できるような気がした。
こういう強かな黒い部分を持ち合わせないと、国という大きなものは動かせない。
頭の回転が速く笑顔で駆け引きができる性格は、王という仕事にうってつけなのだろう。

幼馴染だ恩人だと思いつつも、ロイスがコンヴィクから離れられない本当の理由は、これかもしれない。
コンヴィク自身は平和な生活を望んでいるようだが、彼の有能さを理解している周囲の人間が、それを許さないだろう。
見てみたいのだ。この面白い男が、どんな道を歩いていくのか。

「…ま、やる気があればっていう前提だけどな。」
「? ロイス?」
「手が止まってるんだよ、俺の目は誤魔化せねぇぞ。」
「チッ……」

うわ、コイツ本気で舌打ちしたよ。
前言撤回。やはり、こんな奴の下にいる国民が心配だ。
自分がいなくなったら、国の機能が色々麻痺するかもしれない。

「そういや、猫はどうしたよ?」

コンヴィクのサボりの主な原因を思い出し、ロイスがそれとなく視線向けると、彼はムスッした表情で口を尖らせた。

「新しいお菓子に夢中。俺のことはどうでもいいらしい。」

猫のお菓子好きは今に始まったことではないが、どうやらそれがお気に召さなかったらしい。
…どおりで、素直に仕事しているわけだ。
要するに、放って置かれて拗ねているのだ、大の大人が。

「餌付けが成功して良かったな。菓子を貪ってる姿も、さぞや可愛かっただろ。」
「可愛いよ、可愛いけど…もうそろそろ、俺のこと気にかけてくれたっていいんじゃないか。」

ロイスの嫌味たっぷりな皮肉に対し、彼はますます機嫌を損ねて眉を寄せた。
何をしても可愛い可愛いと猫可愛がりしていたくせに、珍しいこともあるものだ。

「あいつが来てもう1ヶ月か…あの手の性格にしちゃ、早く懐いたほうじゃねぇの?」

あまりに拗ねるのでフォローを入れてやるが、それでも彼の文句は止まらない。

「全部食事のおかげだ。俺が行ったって第一声が『おなかすいた』だ。俺はオマケだ。ただの給仕係だ。」

それは、お前が食事を餌に会いに行くから、そうなったんだろ…。
思ったが、言わない。普段虐げられているロイスの、ささやかな仕返しである。

「猫にとって、美味しいものをくれるかどうか、なんだろ。給仕係なだけまだマシだって。
 あいつの世界では、間違いなく上位位置だろ。」
「それじゃあ、美味しいものをくれる人なら、誰でもいいってことじゃないか。そんなの、その他大勢と同じだ。」

言いたいことは分かるが、非常にうっとおしい。
立場が逆転したことに気づきつつも、ロイスは先程と変わらない、悩みだらけのため息を吐いた。
まだ1ヶ月だ。半年も経ってないというのに、何を急いているのか。

「じゃあさっさとモノにしちまえよ。いくら凶暴でもお前が本気出しゃ、わけないだろ。」

無遠慮にその言葉をぶつけると、コンヴィクの瞳が、すうっと細くなった。
いつもは温厚な緑色を湛えているが、いまロイスを見るその色は、ほんの少し黄色がかっていて、冷たい。

「…本気で言っているのか?」
「本気で言うと思うか?」
「そうじゃないと、信じたいね。」

もう一度ため息を吐き、加減なく見据えてくるその目を、ロイスは書類の束で軽く殴った。

「…痛いんだが。」
「目、作れ。戻りかかってんぞ。」

猫が食事目当てだと言うが、その食事を作っているのは他でもない、コンヴィクだ。
褒めると調子に乗るので言ったことはないが、かなりの料理上手である。
彼でなければ作れない味付けは、たくさんあるのだ。

「欲が出る気持ちを否定はしねぇよ。でも我慢時ってのがあるだろ。」

コンヴィクの手料理しか味わったことのない猫の舌は、間違いなく肥えているだろう。
そういった意味では、彼女はコンヴィクが必要なのだと言える。

「先走ると、見失うぞ。期限があるわけじゃないんだから、落ち着けって。」

しばらく彼女の望む給仕係りに甘んじたって、いいじゃないか。
今のところ、その特別扱いはコンヴィクしかいないのだから。

今度は、コンヴィクが長いため息を吐いた。
少しの沈黙の後、持っていたペンを机に転がし、両腕を天井に伸ばす。
ゴキ、ボキ、と鈍い骨の音が、部屋に響く。

「……そうだな。この書類も期限はまだあるんだから、今焦ってやる必要は無いか。」
「書類と猫は別問題です。これは今やるべき。つーかやって。そうやって溜め込む癖、やめて。」

調子が戻ったら戻ったで、これだ。
やはり仕事を変えるべきか…と、転職の二文字がロイスの頭をよぎった。

そんな時、少しお疲れ気味の親衛隊隊長に追い討ちをかけるように、部屋のドアが無造作に開かれる。

「ヴィク、ここ?」

片言ながら芯の通った声に、ロイスは思わず喉の奥で唸った。
元凶の、ご登場である。

「イクス?どうしたの?」

案の定コンヴィクはいそいそと立ち上がり、入ってきた猫を笑顔で出迎える。
さっきまでのふてくされた態度は何処へ行ったのか。
公務放棄のフラグが立ったのが見えた気がして、一生懸命心砕いた自分が少し滑稽に思えた。

「……なんでいるの。」
「何でとはご挨拶だなオイ。ここは仕事場。ヴィクは仕事中。俺は補佐中。」

ついでに猫にじとりと睨まれ、ロイスはもうヤケクソになった。
遊びも我慢して日々真面目に仕事をしているだけだというのに、どうしてこうも心労が多いのか。

「ふうん…」

何か言い返してくるかと思いきや、猫は部屋の中をくるりと見回し、首を傾げた。

「なんの仕事?」
「俺は国王だからね、一応。政治のこととか、国民のこととか、土地のこととか。」
「外交も忘れるなよ、いっつも俺が代理だけどな。あと一応って言うな。」

猫はまた首を傾げた。興味があるのか無いのか、いまいち飲み込めていない様子だが、
少なくとも資料だらけのこの部屋が物珍しいということだけは、落ち着きの無い様子から伺える。
今まで寝食にしかアンテナを示さなかった筈の彼女の変化に、ロイスは減らず口を叩きながらも、内心驚いた。
1ヶ月も経って、周りを見回せる余裕が出てきたということだろうか。

「…いまは、果物がおいしい。その中でも、りんごがいちばん。」

トルタスクは年中穏やかな気候で、かつ広大な土地を持っている。
放牧はもちろん農業も盛んで、特にトルタスク特有の甘い果物は、市場でブランド値がつくほど価値が高い。
今は真っ赤な林檎が多く収穫される時期だ。猫の言う通り、林檎はトルタスクの果物の代表格である。

「………、お前、そんなこと、よく知ってたな。」

だがまさか、猫から旬の話が出るとは思いもよらず、男2人は目を丸くした。
大好きな食べ物の話だから、知っていたのか。どちらかと言えば、美味しければ何でも良いというイメージがあったのだが。

「ヴィクが言ってた。雨がひどくなかったから、りんごがたくさん取れそう、楽しみだって。
 甘いりんごはお菓子にいい。砂糖をいれなくてもおいしい。だから、今がいちばん。」

ふん、と鼻息荒く喋るその姿は、どちらかといえばイクスのほうが楽しみにしているらしい。
頭の中ではリンゴパイだのリンゴジャムだの、兎に角林檎への夢が尽きないのだろう。
…やはり、食べ物の話だから、良く覚えていたようだ。

「ヴィク、お前、この手の話題なら食いつくと思ったんだろ。」
「…否定はしないよ。ここまではっきり覚えているとは、思わなかったけど。」

『雨が酷くなかったから、林檎の収穫量が増える。』確かに、食事中の彼女に、そんな話をした覚えがある。
しかし、話は聞いているようだが、多少の反応はあっても聞き流されているとばかり思っていたため、
ちゃんとインプットされていたのは正直意外だった。

「これも餌付けの成果、かねぇ。」

食べ物で釣り。
食べ物で言うことを聞かせ。
食べ物をさらに好きにさせ。
食べ物にもっと興味を持たせる。

全部食い気から来ているのには少し引っかかるが、まあそれなりに、コンヴィクの教育は順調なのではないだろうか。
これはあながち、給仕係も馬鹿にできないかもしれない。

「良かったな、ヴィク。」
「何がだ。」
「今は食い物だけだけど、そのうち色んなことに興味持ち始めるかもな。」
「………。」

ロイスの予想では、猫は興味を持った物に対して、こだわりを持つタイプと見た。
食べることと寝ること以外にも目を向けるようになったら、化ける可能性がある。まだまだ、先の話だろうけど。

「…いいんだよ、イクスはこのままで。他の事に興味が無いままでいい。」

だが、コンヴィクは不満げに猫の小さな頭を撫でた。
彼女の記憶力を褒めてやりたいが、ロイスの台詞を聞いた後だと、どうもそういう気分になれない。
自分勝手な感情だと分かっていながらも、複雑である。

「? ヴィク、変な顔してる。」
「あーいいんだよ、ほっとけ。また拗ねてるだけだから。」

腹黒いか愚痴るか、どっちかにして欲しい。
まともに相手をしていると、調子が狂いそうだ。

「猫。あとで菓子をやるから、そこのソファーで昼寝でもしとけ。」

嫌いな男に指図されたのが気に入らないのか、イクスは不愉快そうな顔をした。
だが、コンヴィクの言う通りお菓子の魔力には弱いのか、それともただ単に腹が空いていていたのか。
言われるまま赤いソファーに乗り、猫のように丸まって瞼を閉じる。

ここは彼を見習って、餌で釣ってみようと思う。上司への褒美は、さしずめ猫との自由時間といったところか。
さっさと仕事を仕上げないと、昼寝に飽きた猫は部屋を出ようとするだろう。
それを阻止したいのなら、せめて視察の資料だけでも上げてもらいたい。

「さぁて。猫の昼寝の邪魔すると、後が怖いしなぁ。起きるまで仕事するか、国王陛下殿。」
「……考えたな、ロイス。」
「お褒めに預かり光栄です。」

公務放棄フラグを叩き折るため、ロイスは王の首根っこを掴んで、机まで引きずった。
猫から引き離されたコンヴィクは文句を垂れるが、あっという間に寝入ってしまった彼女の手前、これ以上は騒げない。

結局、ロイスの目論見通り、目の前にご褒美があったトルタスク王の公務は、普段よりよく進み。

いつも悲鳴を上げながら補佐をしていた彼を、それはそれは喜ばせた。
そしてこの後も「この手があった」と、猫を利用する姿が何度も見受けられたのだった。




***
りんごは寒い地方のほうが元気な気がしますが、トルタスクのは品種改良ということで。(逃げた)


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