「……なあ」 私に昨夜の記憶はない。なのにどうして、いつもとは違って聞こえるんだろう。 「どうしても、行くのか?」 違うのかな。違わないのかな。やっぱり私がどうかしてるんだろうか。 渋々ながらも頷いてくれた昨日のユーリじゃないような気がする。 今日のユーリは、どこか近くて、熱があって。 吐息一つに反応してしまう自分が、虚しい。 「うん。今、いかないと」 きっと後悔する。 早く、早く、離れなきゃ駄目だ。 「…」 あれほど律していたのに、間違いを犯してしまった。もう、自分を信じられない。 みんなに迷惑がかかる。ユーリを傷つけてしまう。 私は、足を引っ張る存在になり下がったんだ。 「、手ぇ貸せ」 あったかい手が、冷たい手をさらう。 ユーリの手が冷えてしまう。慌てて離れようとしたけど、しっかり掴まれていて逃げられない。 どうして、こんな私に構うんだろう。わからないことだらけだ。 左の薬指に丸いものがはめられていくのを、ぼんやりと眺める。 「…ユーリ」 「慌てて買ったから、その、いいもんじゃねえけど」 指輪。これは、指輪だ。ユーリにとってらしくない買い物。 「早く、追いついてこいよ」 お日様を背に照れくさそうに笑う顔が、とてもまぶしい。 かっこいいなあ。それだけは、確かな感情だった。 だからこそ、ちゃんと消えないといけないね。 こういう時、どんな顔して、どういう言葉を言えばいいか、私は知っている。 「ありがとう」 口元を緩ませて、目を細めて、ほら笑顔ができた。 ユーリが喜んでくれる方法のひとつ。 笑っていれば心配をかけずに済む。ユーリも笑ってくれる。良いこと尽くめ。 「行ってくるね」 「ん」 命を与えてくれた人だから、終わりを見せたくない。 ユーリの中の私が笑顔で残りますように。 ユーリが、優しいお嫁さんを見つけられますように。 私が居なくなっても、なにも、変わりはしない。 そうして、私は、みんなと別れた。 冷える頭。燻る熱。持て余したまま、歩く。 膜を張ったような視界の中で、心臓の音だけがうるさい。 あとは死に場所を探すだけ。 なのに、どうしてこんなに足が重いんだろう。 「あれ…?」 地図にない分かれ道を前に立ちつくす。 しばらく一本道が続くはずなのに。道を、間違えたらしい。 「…もどらなきゃ」 ぎゅっと刀を握ると、左手に慣れない感触。 受け取って、よかったのか。 せっかくのプレゼントなのに、どうして嬉しくないんだろう。 視界に靄がかかっているようで、頭も思うように働いてくれない。 だからといって、苛立ちも起きない、空っぽの、……。 私にはすべて必要ない。あとは失うだけの道を、受け入れるだけ。 いっそ、今すぐ消えてしまおうか。身体も、感情も、記憶も、全部みんな、余計なだけだから。 この指輪も私に過ぎたるもの。つけてちゃいけない。もう、外そうか。 とりあえず引き返そうと振り返った先に、紫色の羽織が揺れていた。 「ちゃん」 ぼさぼさの黒髪。含みのある瞳。よく動く、口。 仲間と同じように別れたはずの彼が、目の前にいる。 「…おじ、さま?」 どうして。口の中で問いかけが溶けた。 大きな黒いブーツが、ゆっくり地面を踏みしめる。 ゆらゆらと、陽炎のよう。 「こっちを、選んだんだね」 いつもの声色と違う。怖い。有無を言わせない空気をまといながら、彼は、笑った。 「昨夜はお楽しみだったねぇ。どう?好きな男に抱かれて嬉しかったでしょ?」 心臓を、鷲掴みされたかと思った。 言葉が出ない。 何もしゃべれないこちらを見下ろし、目を細めるレイヴン。 「しかも指輪までもらっちゃって。青年ってば責任取る気満々ね」 ま、そうでなくても、自分のお嫁さんにしようと思ってたみたいだけど。 言っている意味が分からず、でも目を逸らすこともできず、私は唇を震わせる。声は、ほとんど擦れていた。 「…おぼえて、ません。叶うなら、なかったことに、してしまいたいです」 昨日部屋に送り届けてくれたのは彼だから、知っていたって、おかしくはない。 でも、だからって、なんで、今、わたしの前にいるの? なにが、起こっているの。おじさまは、何を言いたいの。 聞くのがこわい。もどれない。わからない。どうして、何故。 笑えるほど混乱している私を前に、おじさまは大げさにため息をついてみせる。 「そ、残念。せっかくお膳立てしてあげたのに」 「………え…?」 嫌な予感が、思考を染める。 おぜんだて? じゃあ、きのう、私がお酒を飲んでしまったのは。 「なんで、そんな、こと…」 おかしいとは思っていた。 ジュースを口にした記憶しかないのに、途中で意識が途切れ、気が付けばベッドの上だった。 あれは実はお酒だった。後でそう聞かされたけど、そういえば、あのジュースを勧めてきたのは、目の前の、………。 「だってちゃんってば、もうすぐ消えるから、深くかかわっちゃいけない。そればっか言うからさ。 わざと酒を飲ませたの。強いやつをゆっくりとね。で、ちゃんのホントの気持ち煽ったのよ」 ちゃんは、青年が他の女に触れられてもいいってわけね? 頑なな理性を剥がして、捨てて、拾えないようにしようとする、おじさまの、 「ユーリと寝たら変わるかなって思ったんだけどね…」 結局効果なしか。肩をすくめるレイヴンは、見たことのないレイヴンだった。 いつもへらへら笑って、時折優しい、あのレイヴンは、いない。 「ねえ、ちゃん」 視線が、言葉が、絡みつく。足が地面に縫い付けられたように動けない。 私は。私はただ。ちがう。望んでいるのは、こういうのじゃなくて。 ユーリが、みんなが、おじさまが、笑っている。 少しでも笑顔を失いたくないだけで、だから、私の我が儘なんていらない、のに。 「こっち選んだんなら、おっさんと一緒に死のうよ」 手が伸びてくる。何故か体が言うことを聞かない。 この手に捕まっちゃいけない。それだけは強く感じられて、でも、彼の影はどんどん大きくなって私を覆って。 どんっ 首の後ろに大きな衝撃。 世界が回って、昼なのに帳が落ちた。 「…俺にだって、手放したくないもんがあるのよ」 崩れ落ちたを抱きとめ、ちいさな背中を慈しむように撫でる。 かわいい、かわいい、女の子。 このぬくもりは死んだって失いたくない。 もうすぐだ。もうひと押しで舞台は整う。 彼は怒り狂うだろう。それでいい。強い刃で切り伏せられるのなら本望。 狼が力不足なら、鴉が横から掻っ攫うだけだ。
(狼が犬に 犬が狼に 鴉が犬に) |