私の手って、なんでこんなに、青白いのかな。 大きくて健康的なユーリの手には、どう見たって不釣り合いだ。 長い黒髪が、広い背中でさらりと流れる。 肌も髪も綺麗な色だ。色の無い私とは何もかも違う。 この漆黒は。ユーリの黒は。眩しくて、暖かい。 「…変だとは思ったんだ」 体温を吸い取ってしまいそうな気がして手を引こうとするけど、逃がさないとばかりに強く握り返される。 ユーリはこちらを見ないまま、かすれた声を落とした。 「その気にさせるようなことしてんのに、なんでもないような顔してたから」 そんなことない。ユーリの言動は、いつだって私を揺さぶっていた。 この船室でココアを強請ってくれた時だって、心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと心配したくらいだ。 ギシ。 振り向いた気配がする。 どんな顔をすればいいか分からなくて、床ばかり見てしまう。 「…」 「……………」 …いや。私は、本当は、ユーリの前に立つ資格は無い。 彼に指輪を突き返した。それが何を意味するのか、分かった上で、やったのだ。 ならば、二度と間違いを犯さないよう、浅ましい恋慕を奥深くに押し込めなければ。 私には贅沢で、いらないものなのだから。 「こっち見ろ、」 「………」 「…病気のこと、気にしてるのか」 医者が匙を投げた体質だ。 どうにかなる、なんて。すぐに信じられるものじゃない。 「おっさんは知ってたんだな」 「……具合が悪いところを…偶然…助けてくれて……」 解決策のないモノに巻き込んじゃいけない。当たり前のことを、失念していた。 甘えるんじゃなかった。頼るんじゃなかった。自分のことばかりで、おじさまの事をちゃんと見ていなかった。 もう少し気を配っていれば、何か気づけたかもしれないのに。 「…ごめんなさい……謝って、すむ問題じゃないけど……」 光は見えても、とても小さなものだ。上手くいかなかったら、遅かれ早かれ私はいなくなる。 どうしておじさまは私を助けたんだろう。 病気が見え隠れするこの笑顔は、もう、役に立たない。 みんなに嘘を吐き続けて。ユーリの気持ちも。仲間の優しさも。全部踏みにじった。 …今更。今更どうなるというのか。 事実が露見したからって手を取るなんて、できない。 「……あの夜」 「え?」 「お前が泥酔して俺を頼ってくれた時」 「………あれ、は」 突然切り出された都合の悪い話題に、口ごもる。 あれは、とんでもない失態だ。一番してはいけないことを、してしまった。 間違いという他に、何と表現したらいいか。 「……イヤ、だったか?」 あれほど合わせる顔が無いと思っていたのに、反射的にユーリを見上げた。 子どもみたいに寂しげな瞳が揺れている。まるで親に叱られる前のような様相に、心臓が縮まった。 ただ身体の欲に駆られただけの、世間ではそう珍しくもない出来事だ。 翌日あちこちに違和感は感じたけど、どこも痛くなかった。 きっとユーリは優しくしてくれたんだ。だから、そんな顔、しないで。 「やっちゃいけないことだけど…ユーリで良かったって、思う。 だってユーリのおかげで、身体痛くなかったし、ぜんぜん平気だったから」 イヤじゃない。衝動であっても、求められて嬉しかった。喉まで出かかっている本音を押し込む。 懸命に言葉を捻り出すけど彼の影は晴れないまま…バツが悪そうに、ぽつりと言った。 「だろうな。最後までやってねぇし」 ………………なんで? 長い沈黙の後、ようやく言えたのは、それだけだった。 だって。あの雰囲気で。私が迫ったと言っていた。男として据え膳だと。だから触れたのだと。 なのにどうしてしなかったの?…もしかして、私はユーリを満足させられなかった? そういえば朝も色んなところに触れられた。でも、繋げることまではしていない。 私じゃ、駄目だったんだ。胸の中で、矛盾した気持ちが渦巻く。 「わ、私が初めてだったから……気を、使ってくれたの?」 ユーリの言う通り未遂なら、そうであってほしいと望んでいた私にとって、喜ばしいことのはずなのに。 でもいざそうだと言われると、疑問符ばかり浮かんでは消える。 前も同じことを思った気がする。もうぐちゃぐちゃだ。 たくさんのことが重なって、ぜんぜん気持ちが追い付いてこない。 「…好きな女とは、素面じゃなきゃ意味ないだろ」 まあ最後までしない代わりに、他のことしまくったけど。 物騒なひと言を付け加えて、ぎゅっとユーリの手に力がこもる。暖かさを通り越して、熱い。 「なんでも受け止めるのはお前の得意技だろ?なら……俺の気持ちも、その中に入れてくれよ」 病魔に侵されている私を知って尚、ユーリは繋いだ手を離さない。 「俺は…お前がいるから、笑えるんだ」 「あ…っ、ユーリ、」 コツンと、おでこが重なる。 ああ。ここも熱い。 何故?私の体温が低すぎるせい? 「……ユーリの笑顔は、ユーリのものだよ。私がとくべつなこと、しなくても……」 私ができるのは、脅かされないよう守ることだけ。 それだけだ。それ以上も、それ以下も無い。 「お前が見た笑顔は、お前だけに向けた笑顔だ。…お前じゃなきゃ、作れないさ」 左手が、左手を取った。 証がなくなった薬指を一回り大きな指がなぞる。 ユーリの言葉は、まるでナゾナゾだ。 繋がった右手が。 捕まった左手が。 ひっついたおでこが。 喉の奥を、かき回す。 「ユー…リ?」 「特別製ってことだよ」 ゆっくりユーリの顔が離れていく。でも、額はまだ暖かい。 …どうして、怒らないの? 私は。あなたを傷つけたのに。 なのに、なんでこんなに優しいの? 馬鹿な私は問うように顔を上げる。 目があった瞬間、くっと、ユーリの喉が鳴った。 潤んだ目。 赤く染まっていく頬。 口を引き結び、緊張した面持ちで。 大好きな低い声が、思いがけない台詞を紡いだ。 「結婚してくれ」 都合の良い聞こえ方をしてしまったのだと。 何回も、頭の中で、彼の言葉を、繰り返すけど。 恥ずかしそうに、でも、まっすぐ見つめてくるユーリは。私の、勘違いじゃない。 「と家族になりたい。俺も、の帰る場所でいたい」 らしくなく震える声で、正面からぶつけられた気持ちは、保護者じゃなくて、男のひと。 ひとりの男性が、目の前にいる。 どうしよう。 …どうしよう。 目元が熱い。 瞼の熱さ追いかけるように、感情がせり上がってくる。 「なあ、もう強がるなよ」 捨てようとしている気持ちを見透かしたような言葉に、ますます熱が波立つ。 なんで、いつも、こんなに、崩す言葉知っているの。 どうしよう。どうしたら。 ユーリは保護者。心配性。…もう、そんな風に思えない。 「弱音吐いたって、わがまま言ったって、泣いたって…俺にとっちゃ可愛い女なんだ」 恥ずかしさと何かで、目から熱くて大きなモノが零れる。 これは。彼からもらった熱だ。彼がくれた感情だ。 「好きだ。…愛してる。これからのこと、俺も一緒に考えさせてくれ。俺と、結婚してくれ」 うぬぼれだと。 私の一人相撲だと。 そう思うのは……こんなユーリを前に、失礼だ。 でも、本当にいいのか。治るかなんて分からない。 このぬくもりを受け入れることは、ユーリをまた傷つけることにならないだろうか? 怖い。染みついてしまった何かが、絡みついてくる。 私は。私は。 ためらう私のおでこに、また彼のおでこが寄り添う。 たったそれだけなのに。胸の不安が、少し薄れた気がした。 「…は、本当はどうしたいんだ?」 どうしたい?わからない。そんなの夢物語だったから。 どうしたいか。 そんなの。…そんなの。 なにも、しがらみが無いのなら。 病気なんてなければ。 みんなと、もっと素直な気持ちでいられたかも、しれない。 考えないようにしていた、もしもの話。 …もし、治ったら。 ユーリと、みんなと、もっと一緒にいられるかも。 料理も、お菓子も、勉強も、お洒落も、もっと、もっと。 望みが、希望が、雪崩のように押し寄せて、止まらない。 「わたし、は……」 愛してるって言いたい。私のほうが、愛してるんだって。 魅力溢れる彼を独り占めして、素直にヤキモチ伝えられるようになりたい。 それが許されるのは…ヤキモチを訴えて良いのは、彼の特別な人だけ。 ずっと悔しかった。 でも、見ているしかなかった。 土俵にすら立てない自分が情けなくて、でも、受け入れるしかなくて。 「わたしは…私は……!」 「ゆっくりでいい」 「………っ」 指輪を外して傷つけた。なのに、それでも再び差し出された手。 本当の気持ちに応えられるのは、本当の気持ちだけ。 私も、ちゃんと、ユーリを見るんだ。 「………わ、私も…あなたと、本物の家族に、なりたい……っ」 居候でも、妹でもない。 彼にとって一番近い存在に。 きっと、いま私は、涙でひどい顔になってる。 でも、言わなきゃ。 どんなに情けなくても。それが、ユーリにとって本物になるなら。 「無茶しても、いいの。したいことをしている時が、いちばん、ユーリらしいから。 でもね…もし、帰ってこなかったら…それが、怖くてたまらない……。 家族になれば帰らないとって、思って、くれるから……っ、だから………」 繋がった手が、痛い。 でも、病気より、痛くない。 「で、帰った俺はお前に甘えるのか……魅力的だけどな。甘えてばっかじゃな……」 それでいい。ユーリはユーリの思うまま。 自由で、気ままで、何にも縛られない。 羽を休める宿り木があれば、また飛べるから。 「ううん。私が、甘やかすの。お風呂も食事もベッドも全部……あ、でも…ごはんは一緒に作れたら嬉しいな…」 「俺も帰る場所になるって言ったろ?なんでも任せきりにしてたら愛想尽かされちまう。 …がいなくなったら、なんて。考えたくもねえ」 「どこにも行かないよ。ユーリがいてくれるだけで、わたしは……」 今、なんとなく合点がいった。おじさまはきっと、私の気持ちも、ユーリの気持ちも分かっていたんだ。 あの夜も。道連れに私を選んだのも。 あの人だけが知っているが故の、行動だったのかもしれない。 「俺も同じだ。となら、どこだって暖かそうだ」 楽しそうな、嬉しそうな声。 引き返せないこと言ってしまった。 「…もし治ったら……その時は、よろしくお願いします」 独り占めしたい。なのに、縛りたくない。なんて矛盾。強欲な望みだろう。 でも、ユーリが笑っているから。きっと、叶う確率は少なくない…のかも、しれない。 仲間が、この人が信じてくれているのに。肝心の私が弱腰じゃダメだ。 まだ手放しに喜べないけれど。 本当に未来を語る資格があるのか、わからないけど。 おじさまが繋いでくれた時間。無駄にしちゃいけない。 「……あのな」 呆れたように頭を押さえるユーリ。よく分からなくて首をかしげる私を、じとっと見据える。 「俺は今すぐ欲しいんだけど」 「…うん?」 「をだよ」 「え?……ええ?!」 もし生き延びることができたのなら。その風に考えていたことが、急に現実味を帯びてきた。 まだ、何も解決していない。私と先の約束をしても、叶うか分からないのに。 でもユーリは当たり前だと言わんばかりに溜め息を吐く。 「だって、今の私は…病気で……そんなの………」 「生憎、未知の病気程度で引き下がるような優男じゃないんでね」 未来じゃない。ユーリはずっと、今の話をしていたんだ。 先の不安に捉われてばかりの私の手を引いて、そのまま連れ出そうとしている。 「なんなら下町にいた時から一緒になりたかったってのに」 「えっ……あ、あの………それは…………」 「嫌とは言わせないからな。丸ごと受け止めるってのは、お前だけの専売特許じゃないんだよ」 不機嫌を通り越して不貞腐れるユーリが、たまらなく、愛おしい。 こんな。こんな。贅沢なこと。享受してしまって、いいのか。 今の私でも良い、なんて。嬉しすぎて、言葉が詰まる。何も言えない。ユーリへの気持ちでいっぱいで、 熱くて、甘くて、不謹慎だけど死ぬなら今が良いとさえ思ってしまった。 「…ユーリ、もういいかい?」 ドア越しにくぐった声が響く。ユーリは短く返事を返し、いつの間にか放り出していた得物を取る。 「今から敵地に乗り込む。揺れるだろうから、室内でどこかにしっかり掴まっとけ」 体温が離れる。少し、寒くなった気がした。 ほんの少し近くて、手が重なっていただけなのに。 「待ってろ。帰ってきたら全員分の説教聞いてもらうからな」 「は、はい……」 その中にはきっと、優しい桃色のお姫様もいる。彼女の言葉は誰より重みがあるだろう。 霧の晴れた視界のなかで、黒壇の色がいつもよりクリアに見える。 「ユーリ」 今から向かう場所は容易い所ではない、分かっている。それでも、願わずにはいられない。 みんな一緒に、どうか無事で帰ってきて。 生きていれば。可能性は、いくらでもあるから。 「いってらっしゃい」 「…ああ」 振り向いた彼は、微かに笑っていた。 大丈夫。…大丈夫。 ユーリが私の帰る場所になって。 私がユーリの帰る場所になって。 私の中で、何かが、増えた気がした。
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