その日は生憎の曇り空で、夕方に差し掛かる頃には、霧のような小雨が降り始めた。 泣き出した空に慌てる人々の間を縫うように、ユーリは足を早める。雨が降りそうなのは分かっていたが、騎士をちょっとからかう だけのつもりが、騒動が思ったよりも長引いてしまい、ようやく追い払えた頃には空気は湿りを帯びていた。 「こりゃ濡れ鼠確定だな…」 「ワフウ……」 向かうところ敵なしと(色んな意味で)帝都の有名人であるユーリとラピードだが、お天道様の不機嫌にはお手上げだ。 とりあえず走ってはいるが、今更足掻いたところで無駄だろう。ブーツの中が染みてきているし、 長い髪も張り付いて不愉快この上ない。いっそ川に飛び込んで全部濡らしてしまったほうがすっきりする。 細かい雨音が、次第に大胆になっていく。大粒の雫の方が気持ちいいと、青年は開き直ったように笑った。 住人はさっさと避難したらしく、視界に映るのはがらんとした下町の風景。 おーおー、皆さまお早いことで。愚痴りながらも走る速度は変わらない。 「ラピード、今日は観念して風呂入れよ。風邪引いちまうからな。」 噴水広場に入り居候している部屋まであと少し。横を走る相棒に声をかけるが、返事が返ってこない。 濡れるのが嫌いな彼のことだ、不機嫌を通り越して凹んだか。 ちらりと視線を移すが、ラピードがいない。いつの間に。ユーリは足を止めた。 「おい、ラピード?」 呼びかけても返ってくるのは雨音ばかり。 ついさっきまで併走していたはずだ。何かあったのか。 「ラピード?!おいラピード!」 雨のせいで視界が遮られてしまい、1歩2歩踏み出すも見慣れた青は何処にもなく、ユーリは途方にくれた。 探したくても、これではどこを探せばいいかわからない。 雨足はどんどん強くなっていく。酷い天気だ。こんな中ではぐれたなると、さすがのラピードでも心配だ。 「返事しろ、ラピード!」 うかつに動けないユーリは声を張り上げた。 耳を澄ます。雨音にまぎれて雨音ではない何かが聞こえた。かき消されそうだが、これは確かに聞き慣れた鳴き声。 「…!そっちか!」 ユーリは濡れた地面を蹴った。耳を澄ましながら聞こえるほうへ急ぐ。 増水した用水路が急ぐユーリの横で轟音を立てている。 雨水を吸い込んだ着衣が半端なく重いが、長い坂道を下ってかまわず走り続けた。 町外れに差し掛かったとき、右左に揺れる青い刃が見えた。 あの特徴的な尻尾は間違いなく相棒だ。 「ラピード!」 「ワンッワンッ」 何してんだお前、と怒鳴りそうなのを押し込めた。 冷静沈着な彼にしては珍しく慌てた様子だ。こんな風に吼えるのは見たことがない。 何があったのか。そう問いかけると、ラピードはゆっくりと身体をずらした。 そこには、人形のようなものが打ち捨てられていた。 服はぼろぼろでただの布切れ。伸びる腕は、痩せ細って血の気が無い。 それよりも真っ白な髪が地面に模様を作っている。恐らくまだ年端もいかない少女だろう。 傷だらけで血だらけで泥だらけで、強い雨でも落とせないほど薄汚れた小さな身体は、ぴくりともしない。 息をしているのかさえもわからない。ただ雨に打たれているだけの、その存在。 そこだけが世界が違うようで、怖いほど静かだった。 「……人、か…?」 人形であって欲しい。生きてる人であれば、子どもに、なんて惨い。 希望を込めるようにラピードに問いかけると、「ワンッ」と大きく鳴いた。 それは問いに対する肯定の二文字。 「 助けないと。そう思うけれど、足がすくんで動けない。 情けない。何をやってるんだ。そう自分に言い聞かせるも、あまりに凄惨な光景にユーリの何かが理解を拒んだ。 死んでいると言われたほうが納得できる有様だ。 こんなことがあっていいはずがない。こんなことが、起こっているはずがないと。 ざり、とブーツの底から音がする。その感触で初めて、足が無意識に退いていたことを自覚する。 投げ出された骨のような指が、地面の上を微かに滑ったように見えた。 まさか。気のせいだ。こんな状態で生きているわけがない。 ぼんやりと立ち尽くすユーリの前で、白い髪が幽霊のように宙を舞う。 事切れたと思っていた人形が、目前にまで迫っていた。 「がっ」 体躯差をものともせずユーリを突き飛ばす。 ラピードが咄嗟に飛びかかるが、折れそうな腕一本でなぎ払われてしまった。 「キャンッ!」 「ラピード、くそっ」 突然のことに、そして予想外の力の強さに、剣を落としてしまった。 だが得物を拾わす間も与えず、人形のような少女は、がむしゃらに目の前の人間を襲う。 ぎらぎらと剥かれた目がユーリを見据えるが、けれどどこか、生気が無い。 ためらいなく繰り出された2つの拳を、ユーリは寸で受け止めた。 「こ、の…っ、しつけのなってねえガキだなッ」 腹筋を駆使して頭突き。一瞬星を飛ばした少女の腹に、1発重いものをぶち込む。 胃にはもう何もないのか、身体を折り曲げ胃液を吐き出す。 それでも敵意むき出しの瞳を向けてくる。理性の欠片も感じられない、まるで獣。 「ぼろぼろの奴をどうこうするような悪趣味は無えよ!落ち着け!」 何があったかは知らないが、どうやら疑心暗鬼になっているらしく、 とにかくユーリたちを追い払おうと痛々しいほど必死だった。 このままではまずい。相手はリミッターが外れた状態だ。こちらがいずれ根負けしてしまう。 「お前そのままだと死ぬぞ!おい、聞いてんのか!!」 がむしゃらに突撃してくる少女をなんとかかわそうとするが、行動が読めず顔や身体に何発も当たった。 そして拳を振るうたびに少女の指から、口から、新たな血が滲み出ていた。 足がもつれ、顔から地面に突っ込む。それでも痛覚など麻痺したと言わんばかりに立ち上がってユーリに向かってくる。 ぼろぼろの身体を駆り立てるものは何なのか。傷だらけの彼女に、ユーリは眉を顰めた。 「いいかげんにしろ…死にたいのか!」 びくりと、少女の身体が跳ねた。 虚ろだった表情が初めて歪み、違うと言いたげに首を振る。 血まみれの口を必死に動かすが、声は出ていない。 確かに何かを言っている仕草だ。 でも、ユーリには何も聞こえない。 「………おい、まさか、声が…」 その問いに、少女は一筋、大粒の雫を零した。 固く握りしめていた手がユーリの服を掴む。弱々しくしがみついてくるその姿に、先程までの凶暴さはない。 糸が切れたように瞼が下り、身体が下に沈んでく。 「おい!」 咄嗟に抱きとめると、彼女を支える腕から嫌な感覚が広がった。 このままだと本当に死んでしまう。剣を扱う者だからこそ分かる直感が、強く警告している。 「ラピード、大丈夫か?……悪いがコイツの余裕はなさそうだ、急いで部屋に戻るぞ。」 投げ飛ばされたラピードがフラフラと立ち上がるのを気遣いながら、ユーリは少女を抱き上げる。 よく女性の体重を羽根のようだと例えることがあるが、人間としてあるべきものが欠けている異常な軽さに唇を噛みしめた。 この子の命の灯火は、間違いなく消えかかっている。 負担にならない程度に腕に力を込め、大股で濡れた道を蹴る。 後先のことは考えていなかった。 助けたい。助かって欲しい。それだけが頭の中を占めていた。 |