君に花を




「打撲、火傷、骨折、捻挫…あとろくに食べてなかったのかだいぶ衰弱しておる。小さな子どもがよくここまで…」

女の子だから、痕が残らなければいいが。
還暦を越えた医者は、皺をさらに深くしながらため息をつく。

「治るのか?」
「安静にしてればね。ただ…」
「ただ?」

頭にタオルを乗せたままのユーリを振り返り、医者は静かに首を振った。

「身体はいずれ治る。だが、心はどうか…」

シーツの上に広がる彼女の髪を掬い上げる。真っ白な髪。

「これは色素の抜けた色だ。…よほど酷い目にあったのか、髪の色を失っている。
 彼女の精神はだいぶやられていると覚悟したほうがいい。」

普通ならば動けるはずのない身体で暴れていた少女。
何振りかまわずだった姿を思い出し、ユーリは唇を噛んだ。

「湿布と包帯、薬を置いていく。最初のうちは白湯を飲ませなさい。決して無理はさせないこと。」

ユーリは頭を下げる代わりに目を伏せ、医者を見送る。
扉が閉じられると、自分の部屋だというのに、普段と雰囲気が違う。
相変わらず大きな音を立て振り続けている雨。湿ってとても静かに冷たく感じられる空気。
ラピードはベットの横に自分の毛布を寄せ、丸くなっている。

「とんでもないもん拾っちまったな…」

後悔はない。今更放り出す気もない。けれど、これから大変だろう。

少女の傍らに腰を落とし、白を通り越した陶器のような肌を指でなぞる。
冷たい。本当に物に触れた気分に襲われる。
何もかもが白い彼女は、よく黒尽くめと揶揄されるユーリとは正反対だ。

あの獣のようなぎらついた瞳が、頭に焼き付いて離れない。
虚ろで不安定なのに、目だけは強烈な熱を持っていた。
何もかもを通り越した執着。あれは「生きたい」という奇麗事では片付けられない何かがあったように思う。
そうでもしなければ、ああならなければ、少女は自分を保てなかったのだろうか。

「クゥーン……」

ラピードが鼻先でユーリの指を突付く。同じように冷たい、けれど暖かい濡れた鼻をそっと撫で、力なく笑う。

「おかみさんに一言言っとかないとな。」
「ワフッ」

幸いユーリとラピードの怪我は軽い打撲で大したことはなかった。
下町で育ったユーリは、それなりに色んなものを見てきた。その中にはもちろん、信じられない、酷いものだってあった。
故に自分はそこそこ肝が据わっていり、多少のことでは驚かないだろうと高を括っていた。
…が、それでも衝撃だった。
人があんなに傷ついて壊れた姿など、見たことがなかったから。

指が目尻を掠めたとき、睫が震えた。
ユーリは慌てて手を引っ込め、ラピードも素早く腰を上げる。

また暴れるかもしれない。

念のため剣の柄を握ったと同時に、少女の瞼がゆっくりと開いた。

「…………………」

意識が追いついていないのか、少女はただ天井を見つめている。
指先も動かさず、ただ瞬きを繰り返す以外、何も反応しない。
ややあって、少女の口が微かに動いた。

「…、………、」

けれどやはり声は出ない。それでも何事か呟き、そして、

       っ」

固まった表情のまま瞳から透明の雫が零れる。
瞼を閉じる。開く。その光は虚ろ。見ているようで、何も映していない。

空っぽだった。窓越しに聞こえる雨音にも負けそうで、とても希薄だ。

どうしていいかユーリが迷う中、ラピードが小さく鼻を鳴らした。少女の瞳が、そっと動く。
枕元にいる大きな犬に驚く様子もなく、少女はまた口を動かす。

「……」
「ワフッ…」

まるで会話をしているようだった。その光景に背中を押されたユーリは、息を吸った。

「目、覚めたか」

ラピードの頭をぐりぐりと撫で、傍にあった椅子を引き寄せる。
少女の目が一回り大きくなったが、かまわず腰を下ろした。
大きな、黒水晶の瞳だ。見ていると吸い込まれそうなほど色が深い。

「重傷だとよ。ま、治るまでここにいりゃあいい。」

内心また殴られるかと覚悟していたが、少女は大人しかった。暴れていたのが別人のように、しんしんと涙を流している。
布団の中で何かが動く。ユーリは指を中に潜らせ、まだ温まらない小さな手を握る。
弱々しくも握り返された小さな力に、ユーリは目を細めた。

「よく頑張ったな」

何があったのかは知らない。
けれど、怖かったのは分かる。痛くて辛かったのも。

空いてる手で頭を優しく撫でてやると、少女はさらに瞳を潤ませ、声にならない声を紡いだ。

「ん?」

透明な音を聞き取ろうと、ユーリは耳を寄せる。


あ り が と う


息が、彼女の言葉を形作る。
鼓膜に響いた台詞が、頬に熱が走らせたのを感じた。

ユーリの大きな手に身を委ねるように、少女は瞳を閉じる。
すう、と穏やかな寝息が聞こえてくる。暖かい息遣いに、ユーリはほっと息をついた。

起こさないようにそっと身を離し、「ちょっと留守番頼むぜ」と相棒に一言置いて腰を上げた。
男ひとりやもめの質素な部屋だ。足りないものを足さなければ。
あえて雨の中出て行こうとする主の背中に、ラピードは「がうっ」と了解の意を返した。



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