小さな口が薄っすらと開く。そこへこれまた小さなスプーンが吸い込まれていく。 長い黒髪に隠れて表情は窺い知れないが、恐らくいつもと変わりない無表情なのだろう。 喜怒哀楽を表面に出さない態度は彼女にとって全然不都合ではないらしく、下手をすれば必要性すら感じていないのかもしれない。 だがコンヴィクは全然構わなかった。一向に笑顔を見せない猫に不安を抱かなかった、と言えば嘘になる。 だが無理して笑うこともないとも思う。人の気持ちを知るのに表情が全てではない。 時に表情は嘘をつく。そこから吐かれる言葉すらも。 仕草で、瞳の色で、仮定という前提だけれども、それでもある程度の感情は読み取れる。 「おいしい?」 猫はチラリとコンヴィクを見た。だがすぐ手元に目線を戻し絶え間なくスプーンを動かす。 そして膝に置いていたスープ皿を胸に抱え、邪魔はするなと言わんばかりに彼に背を向けた。食べるのに夢中になっているようだ。 「今日はね、倭国という国の『オカユ』という食べ物を作ってみたんだ。」 それでも言葉を続けた。相変わらず背中を向けられたままで。 宣言通りコンヴィクは猫の世話を一手に引き受け、公務の合間を縫ってはこの部屋を訪れている。 そんなにこやかな来客に対し、部屋の主はベットの上で終始黙ったまま。 視線すら合わせること無く、ただ持ってこられた食事にがっついている。 そしてあれやこれや何でもないことを喋り続けるコンヴィクの声を、右から左へ聞き流す。これが猫の食事風景。 1度だけ、静かにしたほうが良いのかもしれないと、何となく口を閉じてみたことがあった。 すると、猫も動きを止めた。あれほどかきこんでいたご飯には目もくれず、伸びきった前髪の間からじいっとコンヴィクを見る。 この時ものすごく不審そうな目つきをしていたのを、はっきりと覚えている。 五月蝿くない?そうお伺いを立てると、猫は何でもなかったかのようにまた食事に手をつけた。 少しでも楽しく、少しでも安心をと、この国の色んな日常を話題にしていたのだが、 それが猫に少しばかりの平穏をもたらせていたのかもしれない。 周りの世界を知ることが安心に繋がるのなら。 コンヴィクはそれからというもの、自国のことだけではなく他の国のことも話し続けた。 そして毎度猫の反応をチェックする。流しているようで実は聞き耳を立てているらしく、 気になる話題の時は耳や尻尾が微妙に動くのだ。 彼はそれを見逃さず、もっと深い知識をと書物室を漁るのももう珍しくない光景となった。 「夕食は『タマゴガユ』にしようと思っているんだ。 『オカユ』を卵でとじたもので、『ポンズ』で食べるとすごく美味しいらしよ。」 そんな彼女のマイブームは、独自の文化を持つ島国、倭国。 此処とは全く違う有り様が興味を誘うらしく、ポーカーフェイスは作れても黒い尻尾は正直だ。 生の魚を食べる。そんな話を何気なく喋った時の揺れに揺れたあの反応は、本体とギャップがあってかなり面白かった。 「良い子にしてくれたら のそりとベットに手をつけ、スープ皿をコンヴィクに突き出す猫。当然のごとく中身は空。 何も喋らない。反応も薄い。だが毎日見ていると若干の変化は分かってくるもので、それだけでこの不思議な対話は十分満足だった。 「イクスは苦いのは嫌い?女の子だし、やっぱり甘いほうが好きかな?」 そんな彼の言葉に、猫は微かに目を丸める。 「お菓子と一緒のお茶がね、ちょっと苦いんだ。大丈夫か、な・・・?」 つんつん、と服が引っ張られる。 とりあえずスープ皿をテーブルに置いて視線を落とすと、華奢で白い手がコンヴィクの腕を掴んでいた。 餌付けの成果か出会った時に篭もっていた鋭い色は今ではもう消えかかったものとなり、代わりに純粋な紅が瞬いている。 柔らかくなったとはいえ、それでもまだ不機嫌そうな無表情が多く、 自分から極力関わろうとしないことが多い猫にしてみては、この行動は極めて珍しい。 「イ、イクス・・・?」 情けなく心臓が跳ね上がりながら、彼女の大きな瞳を食い入るように見つめる。 頬が少し赤く染まっていてそれがとても愛らしくて、今度髪を整えてやろうと心に思った。 「いくすって、なに?」 色づいた唇が、音を形作るために震える。 「もしかして、わたしの名前?」 普段喋らないため、慣れていない喉が片言の声色を紡ぐ。 コンヴィクは気持ち悪いほどふにゃりと顔を崩して、笑う。 「・・・・うん。君の、名前だよ。」 「ふーん」 そして猫はまた無愛想に視線を逸らして窓に視線を逸らした。 食事という用事が終われば、まるで解放されたがっているかのように外を眺める。コンヴィクのほうなど、見向きもせずに。 実際脱走したことなど無いから思い違いなのかもしれないが、少なくとも部屋を窮屈に感じているのは確かだ。 だから。食事を運んでくるコンヴィクと目を合わせるのは本当に数えるほどしかなくて。 おまけに口を開いたのは、鈴のような声を聞けたのは、猫が暴れたあの初日以来。 「可愛い声だね。」 猫はチラリとコンヴィクを見た。興味無さそうに。 だが、問いかけに反応する彼女のその姿も同じく初めて見るもので、コンヴィクは緩みきった頬を上げることができない。 新しい、猫の 「高すぎない、心地良い声色。暖かいものを感じるよ。」 ゆらり、イクスの尻尾が左右に揺れる。照れているのか、恥じているのか。それは彼女のみ知る答え。 ほんの少しだけ眉を動かして、そうして彼女は何も言うことなく再び外を見た。 ペンキを零したような綺麗な青空。太陽の光が遮られる事無く黒髪を照らす。 こうした不思議な対話が楽しいと言えば、親友はきっと理解できないといった顔で皮肉を叩くだろう。 けれどコンヴィクはこの時間を何よりも心待ちにしている。 毎日のサイクルの中に転がり込んできた時間の止まった時間。静かで穏やかな空間。 「また聞かせてくれるかな?」 猫は答えなかった。だが尻尾は小振りながらも振られる。 それを良い様に捉え、コンヴィクは腕を天井に伸ばす。 デスワークで固まった節々が小さく悲鳴を上げた。 ここは彼だけが羽を伸ばすことのできる、小さな楽園。 ←BACK NEXT→ 09/11/8up |